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8月15日、終戦記念日。


【  平和  】

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夏の真っ只中、ギラギラ太陽の光が照る日。
炎よりも熱く燃え盛り、そして、氷よりも冷たく凍りついた日。

8月15日、終戦の日。

希望と絶望、平和…まさに悲喜交々の想いを締めくくった、この日。
昭和天皇の玉音放送により、終戦宣言が日本に響いた、この日。

この日は本当に大事な大事な、もう取り戻せない過去の疵も含めて、我々日本人が決して忘れてはならない日だと思います。
当時を生きた人々にとって、戦争はすべてであって。
戦争が当たり前の時代で、その中で生き抜くのがすべてであって。
食べ物も呼吸することすらもすべてが死と隣り合わせだった、時代。
それでも、その中にも正義はあったんだろうね。
戦争で武器を振るい、勝利するための、正義はあったのでしょう。

現代でぬくぬくと生きてきた私には、そうして生きてきたこの時代の人々が掲げた正義を一絡げに間違っているとはいえないです。
…きっと言ってはならないことだと思います。
(戦争を肯定しているわけでは決してありません。ただ、その中で生きる術を必死で繋いできた人々の信念というか、そういう精神を否定したくはないのです。矛盾しているかもしれませんが…)

失ったものは多かった。
もう取り戻せない疵が残った。
多くの人が亡くなられて、どうしようもない悔恨と悲哀が渦巻いて。

それでも、当時の時代を生きた人々が信じる正義、…微かな希望で生き繋いできたからこそ、今の私たちが生まれてこれたのだから。


8月6日の8時15分。
8月9日の11時2分。


原爆が広島・長崎に投下された日付と時間。
きっと亡くなられた人にとっても、生き残った人にとっても、地獄でしかなかっただろうに。
それでも、そんな中生き抜くしかなかった時代。

これは決して過去なんかではないのですよね。
「終わったこと」ではないんですね。

今も、伝え続けなければならない大事なこと。


当時の時代を生き抜いた人々がいるということ、
戦争が残したモノがいったいどういうことなのかということ、
そして、そんな中を潜り抜けて、命を授かることが出来たことのめぐり合わせへの感謝。


これはまだ小学の頃に、私の母から聞いた話なのだけれど、祖父も戦に召集かけられて、中国へ戦争に行っていたのだそう。
そして、戦が小康状態になり、祖父が一旦日本に戻ってくることになったのですけれど…。
祖母はまだ赤ん坊の母を連れて、祖父を迎えに行こうとしていたとのこと。
けれど、その駅は他にも食料調達やら同じように負傷兵を迎えに行く家族らやら、疎開に向かう人々やらで、ごったがえしていたんだって。
だから、祖母は切符を買うことも出来ずにおろおろしていたそう。
でも、そんな祖母に、ある見知らぬ兵隊さんが声をかけてきたという。
その人は祖母から事情を聞くも、すぐさま人ごみに身を埋めたとのこと。
そして、しばらくすると、その兵隊さんが戻ってきて、他人事のはずなのに、自分がとても嬉しそうに「切符買えましたよ、これを持って迎えに行ってあげてください」と切符を渡してくれたそうです。
祖母はあまりの感動で御礼を言おうとしたものの、その兵隊さんは行く場所があったらしく、すぐに去ってしまったとのこと。
そして、その切符を持って祖母は無事祖父を迎えに行けたって。

けれど。
祖母が祖父に会えた頃、一方で祖母が手間取っていたその駅は被爆に遭っていた。
それはもう酷い有様だったんだって。
駅らしい風体は見るカゲもなく、真っ黒に煤けて。
多くの人も、亡くなられた。

後にそれを知った祖母はもしも兵隊さんが現れず、あのまま留まっていたら、自分も被爆に巻き込まれていたのかもしれない、とぞっとしたのだそう。
そして、同時にあの親切な兵隊さんの行方はどうなったのだ、今一度御礼を言いたいのに、生きているのかも定かではない…どうかあの被爆に兵隊さんが巻き込まれていませんように…ってずっと気がかりだったんだって。
当時、赤ん坊だった母も、もしかしたらその場に巻き込まれていたのかもしれない。
そして、最悪、私も此処に生まれていなかったかもしれない。

それを聞いて、私は本当にその兵隊さんに感謝した。

「幸運だった」

そんな言葉で済ませられるようなことじゃないと私は思う。
運命?幸運?偶然?
それ以上に、これはとても恐ろしくて、本当に危うい岐路だったと思う。
けれど、きっとあの時代はそんな危うい岐路の繰り返しだったのだ。
そんな中で、生きる術と支えはとてもとても切実なものだったと思う。
たとえそれが「敵を殺して、自分が生き延びる」という正義だったとしても。


亡くなられた人々の軌跡と、そして生き残った人々の軌跡とが重なり合って、今の時代に平和の祈りが訪れたのですよね。


「知らない」で済むことではない。
「知るべき」ことだと切実に感じます。
「平和」の重み。



今も、続いているのだから。

どうか、世界に安らぎと幸いを。

こどもたちが、ずっと笑っていける世界を。



*  *  *

そういえば、さっき、別件で昔の絵日記やら読書感想文をひっくり返していたのだけど、
やはり夏の絵日記や感想文の中には必ず戦争に関する記述がありました。
当時は当時なりに、平和を願う気持ちでいっぱいでした。

特に、感想文の中で、最も印象に残ったものがありまして。
…というより、思い出したといいますか。

絵本に、「おこりじぞう」という作品があります。
児童向けなので、ひらがなですが、漢字を当てはめるとしたら「怒り地蔵」。

戦時中、被災した少女の消えてゆく命を目の前に、
それまで笑い顔だったお地蔵様の顔が、鬼の形相に変わり、
ただただ涙を流すお話。

クライマックスの描写も含め、
幼心にぶわっと来るものがありまして、今でもその挿絵はよく覚えています。

*  *  *

さてさて、ずいぶん後手になってしまいましたが、
上記のもろもろの記憶や感情をとつとつと思い返しながら、今回の絵を描きました。
えーと…何も言うことはないです、はい。
兎に角描けて良かったなぁ、って思います。

ああ、それにしても祖父のことを思い出すなぁ。
私、お祖父ちゃんッ子だったんですよね。
実はまともな会話したことないんです。
私が喋れなかったし、喋っても通じなくて、筆談と絵で会話してました。
祖父は字がとても達筆でしたね。その記憶はもうありありと残っている。
歩く時、ひょこひょこと足を引きずる様子も覚えてる。
不器用に笑う顔がすごく優しかったのも。

今なら、きっと色々話せたのにな、っていう小さな切なさはあるけれど、
お墓に行くたび、大体報告してるから…ま、いいか。


ああ、そういえば、祖父が中国に行っていた時の話で、印象に残っていることがあります。
母の又聞きなのですけれど、祖父は、情報関係の兵隊に属していたらしく、前線に出こそはしなかったものの、多くの人の死を見たと言ってました。
でも、そんな中で、ちょっと吃驚するような話があったんですよね。
祖父は中国語が喋れた(読み書きも出来るようでした。ただ、どこまで喋れるのかはいまや確認する術もないのですけれど…)のですけれど、それは身内の軍で覚えたものではなく、敵方の子どもにお菓子をあげて中国語を教えてもらったというのです。
祖父が何故そうしたのか、本当にその意が気になるところなのですけれど…その疑問が私の中に生まれる時にはもう祖父は遠いところにいってました。
おそらくは情報を引き出す為、だとは思うのですけれど…けれど、その手段がね、”お菓子”をあげて、相手の言葉を教えてもらうというやりとりはとても人間臭くて、当時の時代性や敵同士である関係を踏まえるとやはり吃驚せずにはいられない祖父の逸話なのですよね(笑)
どんな風に教えてもらってたのかなぁ…。仲良く、とまではいかなかったと思うけれど、少しでもそのやりとりに(敵同士であっても)人と人として穏やかな瞬間が訪れていたのかもしれない、なんて期待しちゃったり。

小学生の頃にこの話を聞いて、そのまま疑問に思うことなく流してしまったのだけど、成長した今、この逸話も含め、本当に祖父に詳しく聞きたい話が溢れ出ていて、ますます切なくなるなあ…。
特に祖父が亡くなったこの時期にはどうしても思い出します。

あれ、なんだか戦争の話と祖父の話で支離滅裂に(苦笑)

ええと、このままじゃキリが悪いですね(苦笑)

けど、無理矢理終わらせます(待て)

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表現者
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読書・球技スポーツ・お絵描き・寝ること・食べること(基本、本能的に生きております)
自己紹介:
気ままに絵描きスタイル。
気ままに言葉つぶやきスタイル。
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